今回は『キル・ビル』(2003年)と『キル・ビル vol.2』(2004年)とをまとめてレビューします。タランティーノ監督は「(二作品を)個別の映画として観て欲しい」と語ったそうですし、実際とくにvol.2はvol.1を観ていなくても十分楽しめる作品になっています。 が、ここは監督の意向を無視して、あえて一つの作品としてレビューすることにしました。 「無視」するというのは何ともタランティーノ的じゃありませんか(笑)。 さて、『レザボア・ドッグス』や『ジャッキー・ブラウン』のレビューではタランティーノ作品の「欠落」あるいは「あからさまな無視」について見てきたんですが、この『キル・ビル』二作については多少事情が複雑のようです。 vol.1が始まってすぐ僕たちは、コードネーム「ブラック・マンバ」の主人公(ユマ・サーマン)の名前がビーという効果音によって隠されていることを知らされます。 これがこの作品における「欠落」・「無視」なんでしょうか。 でもこれは「無視」というより隠蔽に近いように思えます。 一方で「ブラック・マンバ」とビル(デイヴィッド・キャラダイン)との関係についても、僕たちには曖昧に隠されている。 なぜ彼女はビルの元を離れたのか。 なぜビルは彼女を殺そうとしたのか。 もっともゴーゴー夕張(栗山千明)の生い立ちをアニメで饒舌なまでに説明しておきながら、彼女とビルの関係についてはたったひと言で済まされていますから、そもそもビルについてタランティーノ監督はあまり語りたくはない(笑)のかも知れません。 そうしてみると、どちらかといえば「ブラック・マンバ」の名前よりもこちらの方こそ、「欠落・無視」に近いと言えるでしょうか。 しかしvol.2に入ると、たちまち「ブラック・マンバ」の名前がベアトリクス・キドーであることが明かされるんですね。同様に彼女とビルの関係についても映画の終盤で明らかにされるでしょう。 どちらもこれまでのような「欠落」・「無視」とはちょっと事情が違うわけですね。 だとすると何かしら変化が、この『キル・ビル』二作品では起きているんでしょうか? そうかも知れないしそうでないかも知れない。 何ともあいまいな言い方で恐縮ですが、今はそんな表現にとどめておきましょう。 ただしもう少し語っておく必要があります。 確かにvol.2で「ブラック・マンバ」はベアトリクスと呼ばれ、彼女が名前を「無視」された存在ではなかったように見えます。 しかし実はその後も名前が効果音で隠されているシーンがあります。 それは弟のバド(マイケル・マドセン)が住む廃墟のようなトレーラーハウスを、ビルが訪ねて行った場面です。 このシーンはvol.1のラストにも収録されていて、だから効果音で隠されているんだと指摘されるかも知れません。 でもすでに彼女の名は明かされているわけですから、ここで改めて効果音を被せる必要はないでしょう。 そうしてみると僕たちには、ここで口にされている名前はベアトリクス・キドーとは別なんじゃないか、そんな疑惑が浮かんできてしまうんですね。 彼女にはあえて明かされることを「無視」されている別の名前がある。 そんな風に思えてくるわけです。 もっともエル・ドライバー(ダリル・ハンナ)は彼女のことを「B」と呼んでますから、ビーという効果音がそのまま彼女の名前を意味しているという捉え方もないわけではないんですが(笑)。 あるいはこう見ることもできます。 そもそもなぜ彼女の名前を効果音で隠す必要があったのか。 僕たちはvol.2であっさりベアトリクスの名が明かされることで、そんな疑問を持ちます。 もし名前が伏せられたままだったら、僕たちはそれをただの「遊び」としてやり過ごしていたかも知れません。 つまりタランティーノ監督は彼女の名を簡単に明かすことで、『隠していた理由を語ることを意図的に「無視」してるんだ』と、僕たちに明示しているんじゃないか、と。 今や僕はどちらかといえば後者であるように思えてきているんですが、いずれにしろ事態はそれほど単純ではないことがわかるでしょう。 もう一つ。 vol.2のラスト、二人が対峙する場面で、ベアトリクスは自白剤によって自分がビルの元を離れた理由を聞き出され、それが赤ちゃんだったことを告白しています。 そのとき僕たちに思い出されるのは、vol.1で彼女が病院で目覚めたシーンです。 彼女は真っ先に自分のお腹に触れ、そこが「空っぽ」であることに気づきます。 本来なら自分の赤ちゃんを抱えあげていたはずの両手が、何もない空虚をつかんでいるだけだということに彼女は悲嘆する。 彼女の手の中の空虚。 それは『レザボア・ドッグス』の空白のトライアングルのようにも見えます。 そして僕たちはここに至ってようやく、vol.1の冒頭でヴァニータ・グリーン(ヴィヴィカ・A・フォックス)の「復讐」の一語に敏感に反応して、彼女が「復讐なら子どもと夫も殺す」と言った言葉の意味を本当に理解するわけですね。 そう、『キル・ビル』という映画は、単にベアトリクスの復讐の物語ではなく、彼女の手の中の空虚を「何か」で満たそうとする物語なんでしょう。 彼女自身もその「何か」が何であるかはわかっていなかったわけですが。 もし『キル・ビル』という映画にこれまでのタランティーノ作品からの変化を見ることができるとすれば、この「欠落を満たす・欠落したものを回復する」という点にあるんじゃないかと思います。 そうしてみると、ベアトリクスは隠されていた自分の名前もまた取り戻した、ということなのかも知れません。 『キル・ビル』 『キル・ビル vol.2』「weekly? ぱんだnoきぐるみ」ご訪問ありがとうございます。 ●参加してみました(映画ブログランキング 映画評論・レビュー部門)。 ![]() ●「シネマのリハビリカプセル」とは… 劇場で観ることができなかった映画、とくに1990年代、僕の映画的空白期の作品を、DVD・ビデオ等でレビューします。 過去のレビュー一覧は左サイドバーの下部にあります。 |
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