初めて僕たちの世代が映像としての『時をかける少女』に出会ったのは、1972年にNHKで放送された『タイムトラベラー』『続 タイムトラベラー』でした。主演は島田淳子さんで、子供心に彼女のセーラー服姿に胸をときめかせた記憶があります。 現在はミュージシャンの柳ジョージ氏の奥さんになられてますね。 次に僕たちが出会うのは、1983年、原田知世主演で大林宣彦監督が撮った映画『時をかける少女』です。 これは大林監督の尾道三部作の第二作で、懐古趣味的な映像と原田知世ちゃんとが不思議にマッチした作品でした。 その後1997年には、大林版のプロデューサーだった角川春樹氏が、今度は監督として中本奈奈主演で大林版をリメイクしています。 で、アニメやTVドラマを除けば、それ以来13年ぶりに映画化されたのが今回の谷口正晃監督版『時をかける少女』になるわけです。 もっともこの谷口版は、主人公がこれまでの芳山和子から彼女の娘に移っていますから、厳密に言えば『時をかける少女』ではなく『続 時をかける少女』と呼ばれるべきなのかもしれません。 いずれにしても僕たちの世代にとって一連の『時をかける少女』は、自分の人生の歩みと重なるような思い入れ深い作品であることは間違いないでしょう。 という前ふりをした上で(笑)、谷口版『時をかける少女』です。 母和子(安田成美)の代わりに1972年の4月にタイムトラベルするはずだったあかり(仲里依紗)は、誤って1974年の2月に飛んでしまい、時空から落ちたショックで気を失った彼女を保護してくれた溝呂木涼太(中尾明慶)の部屋に寝泊りすることになります。 涼太の部屋には蒲団やベッドはなく、ふたりはコタツに入って眠る。 カメラは度々そのふたりを真上から俯瞰で捉えるんですが、そのとき僕たちの目には、動かしがたい存在感をもってそのコタツの四辺形が焼きつけられることでしょう。 ふたりでひとつのコタツに入って眠るなんて状況では、男なら本能的によからぬことを考えたくなるものなんですが、幸い(笑)ふたりがそんな関係になることはありません。 それはあかりが未来からやって来た少女であるために涼太にブレーキがかかっているから、というよりは、何だかそのコタツの四辺形が大きな錠前というか、ふたりの下半身の枷となる貞操帯のようにさえ見えてくるんですね。 時間の枷とでも言っていいでしょうか。 同時にこの四辺形は、たぶんどこかで、時空の越境を監視している27世紀の人々、そしてケン・ソゴル(=深町一夫:石丸幹二)が手にしているハンディ・コンピューターの四辺形に通じているかのようです。 一方で、あかりが深町を探す唯一の手がかりとしている写真、彼と母親とが写っている一葉の写真もまた、同様に四辺形ですね。 が、これは本来ケン・ソゴルがタイムトラベルに関わる母和子の記憶とともに消去しなければならなかったもので、その意味で、はからずも時空を越境してしまったものです。 つまり同じ形状でありながら、二種類の四辺形がこの映画には存在するわけです。 時空の枷に囚われる四辺形と、越境する四辺形。 その違いはいったい、どこにあるんでしょうか? 涼太は映研で8ミリ映画を撮っています。 稚拙ながら特撮を工夫し、やがてあかりの父となるべきゴテツ(青木崇高)をカメラマンとして、SF映画を撮っているんですね。 現像されたフィルムを彼が編集する様子を見るとき、僕たちはそれが無数の四辺形を連ねた長い四辺形だということを改めて確認するでしょう。 もちろん、あの写真もまた、同じようにフィルムから派生した四辺形であることは言うまでもありません。 が、フィルムは四辺形でありながらリールに巻かれたときに円形となる。 それは映写機にかけられて回転運動し、また円形のフィルム缶に入れられて保存されるでしょう。 実際、涼太が編集し、後は音入れするばかりになった『光の惑星』という名のフィルムは、円形のフィルム缶に入れられてあかりに手渡されるわけです。 そしてあかりを2010年に戻す直前、そのフィルム缶の存在に気づいたケン・ソゴルは、いったんはそれを自分の懐に入れようとしながら、再びあかりの制服のポケットに戻すんですね。 そう、円こそが、時間の枷を免れることができる形状なんじゃないでしょうか。 フィルムの四辺形は、同時に円形であるために時空を越境することができる。 あかりが深町を呼ぶために出した新聞広告は、そもそも母親が貯めていた1972年の100円玉を、あかりが2010年から持ってきたからこそできたことだということも思い出す必要があるかも知れません。 時空を越える円形のフィルム。 何だかそれは、まるで『時をかける少女』そのもののようじゃありませんか。 NHKのドラマとなって以来、40年にもなろうという時を越えてそれは僕たちのポケットの中で見つけられ、今それは目の前にある。 かつて見たことがあるような気もするし、まったく記憶にないような気もする。 あちこちに散りばめられた大林版の断片が、どこか僕たちの記憶回路をくすぐらないでもない。 『光の惑星』同様、それが優れた作品であるかどうかさえ、この際あまり関係ないのかも知れません(笑)。
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